ブーティ



ひーちゃん。東京女子流の女の子。歳もわからない。ぽかんと咲きじゃくる女の子。



「鼓動の秘密」のリリース週間イベントの三日間を連日見に行く。
5/19「たまプラーザにひーちゃんに会いに行くだっちゃ。」 思い出せない。あの日どうしてたまプラーザに行くだっちゃだったのか。二日目「ひーちゃん。。。ただのかわいい美少女じゃなかった、とても寂しそうな顔をする女の子だった、ブーティのヒールであんなに綺麗に激しく躍動してダンスできるのに、MCでただ立つ時にヒールに負けて揺らいでしまう、髪を梳く仕草がぎこちない、時折、そこにはいない少女たちの塊、幽霊のようにも見えた。」


5/26駄菓子屋さんに駆けてゆくようなダンスだ。運動場で遊ぶ女子たちの混ざり合う遊ぶ声だ。けれど、ひーちゃんはいつもどこかその円のなかから抜け出してしまってる。この子たちに与えられた名は東京少女流じゃなかった。東京女子流だった。流れる。季節の話じゃない。ひーちゃんがこの世界にその姿を現してからもうとっくに過ぎ去ってしまった時をその過去を今必死で追いかけている、「馬鹿に見つかるってこういう事を言うんだな。」ブログのタイトルがまだ「だっちゃ!!!」になっていない日にまで遡ってそこで出会うひーちゃんの日常は、絶望と幸福の両極だけで形成装飾しようとする大人の世界にはいない、穏やかで澄んでただそこでひーちゃんは呼吸している、蛍の光を見つめて、祖父母の野菜畑で野菜を収穫する、弟の話をする、俺がもう取り戻せない欲しがりもしない感情と感動がこの子のなかに動いている事がわかる、ひーちゃんの時間、俺の時間、

この子は一日のなかに幸福の純度とその色を高望みしない、その鼓動、 この子の今がこの子のためだけに未来を帯びてきらめく事だけが重大だ、とても恥ずかしい話だ。大島弓子だ。ソフィア・コッポラの映画のなかのあのクレオだ。 ひーちゃん。恋も愛も性も見出す事のできない程のいたいけな魂がそこにある。その輝きに触れてただ、安らいでいるだけだ。とても情けなくて都合のいい事に。

日替わりムービーは日記映画のようにしぐさの日記として機能する。そこにはひーちゃんのけして撮られてはならない、いや、俺が見てはいけない光景が映ってる。それもカメラのなかのデジタル処理されて残るただのデータの気質として映っているんじゃない、まるで空が水面に映るように、空と水面が隣人のように映し合うかたちでひーちゃんたちはカメラ水面に映ってる。誰かが撮らなければひーちゃんの日常の呼吸として消え入ってゆくはずの小さなしぐさだけがそこに納められてしまっている。俺がひーちゃんが存在する子供の世界や家庭に居なければ会えないその表情だ。この子たちの回りに居るオトナの女性の優しさがとてつもない事が伝わってくる。お姉さんでも母親でもなく。テレレッテーテレレッテーテレレレレレーレ鼓動の秘密のイントロが。魔法の呪文のようにはじめての音のように、俺のなかにずっと鳴り響く。ひーちゃんの名前はひとみだ。瞳じゃないのかは定かではないけれど、ひとみというのがとても素晴らしいと思った。なぜならこの子はやはり「ひとみ」の子だ。でも、まだ俺にはそのひとみの美しさを語るだけの力はない。ただ、ひーちゃんのひとみはひーちゃんをひーちゃんとして存在させてるなによりも大きな意味だ。



5/31
無料で会員になれるよ!と言うことをひーちゃんたちが一生懸命にMCで言っていた事を思い出して数日まえにオフィシャルファンクラブに加入したのだけれど、そこには「日替わりムービー」というコンテンツがあり、先日ここにも書いたのだが、そのムービーが本当に素晴らしい。。。しかしなんと、このタイミングで日替わりムービーの過去ログの100以前のものが消去されてしまうという大変ショックな出来事が起きてしまった。

けれども、大変ショックではあるが、もしかしたらそうした伝説的仕草の過去を高速で消去してゆくという行為は、東京女子流の少女鼓動と美しく連弾している気もする、というのは、彼女たちの身体や鼓動は常にありえない速度で私を置いてきぼりにするべきだという第一の約束事が発動している。
だなんて言葉を思考しても、どうにもならない。。。とても悲しいんだっちゃ。。。ちょうど居候してしまっていた握力くんのPCでその日替わりムービーを見るというその時間がなにか自分にとってはかけがえのない幸福タイムだっただけに、とても悲しい。

悲しいと言えば、その日替わりムービーでさえ、一種の遭遇の傾向、求める瞬間というものが生まれはじめて、少女時間を司るひーちゃんの瞳が「ぽか〜ん」と輝いている瞬間ばかりを探してしまう、その瞳にとても感動するその事自体が、ひーちゃんという存在を経由して他の存在、もしくは感情に到達するための用意周到な企みなのではないかと自身に不信感しか湧かないが。。。

それでもお豆腐を食べるひーちゃんをyoutubeで見つけてはそれを召還したりしている。

ひーちゃんを見たいと思う事の感情が、穏やかである事だけはたしかだが、この穏やかさも、季節なのだろうか。

ひーちゃんがお豆腐を食べる姿の映像だ。こうした映像の効力というのはほら。。。例えば青山真治の月の砂漠の冒頭に誰もいないリビングで男がテレビにホームビデオを直に繋いで遊園地で遊び娘を見る。。。。。ひーちゃんから少女という烙印をいかに見失えるかが問題だった、たしかにひーちゃんはとてつもない幼さでしかそこにはいなかった、その幼さに名をつけるなら間違いなく少女だ、しかし、その佇まいが少女というあの規制されるべき鼓動でだけ躍動しているのかと言えばそれは違った、ひーちゃんは少女を破壊する、いや、少女という存在の尊さを真に私に知らせてくれる、距離を越えてくる、それは家族学校地域という唯一あの少女という悲惨なる存在を愛すべき存在へと近づかせる空間関係だ、それをひーちゃんは仕草で形成し用意してしまう、あまりにも近寄りがたい少女が不意に美しい瞬間として傍を通り過ぎるように存在してくるあの力、この世界で何よりも大切に護るべき命であるように鼓動する瞬間の美しさをひーちゃんは勝ち取る、ひーちゃんはその時に少女からひーちゃんになる。私はその瞬間に涙する。
ひーちゃんがお豆腐を食べる姿の映像だ。こうした映像の効力というのはほら。。。例えば青山真治の月の砂漠の冒頭に誰もいないリビングで男がテレビにホームビデオを直に繋いで遊園地で遊び娘を見る。。。。。ひーちゃんから少女という烙印をいかに見失えるかが問題だった、たしかにひーちゃんはとてつもない幼さでしかそこにはいなかった、その幼さに名をつけるなら間違いなく少女だ、しかし、その佇まいが少女というあの規制されるべき鼓動でだけ躍動しているのかと言えばそれは違った、ひーちゃんは少女を破壊する、その距離を越えてくる、それは家族学校地域という唯一あの少女という悲惨なる存在を愛すべき存在へと近づかせる空間関係だ、それをひーちゃんは仕草で形成し用意してしまう、あまりにも近寄りがたい少女が不意に美しい瞬間として傍を通り過ぎるように存在してくるあの力、この世界で何よりも大切に護るべき命であるように鼓動する瞬間の美しさをひーちゃんは勝ち取る、ひーちゃんはその時に少女からひーちゃんになる。私はその瞬間に涙する
例えば、300円を持って駄菓子屋に駆けてゆく少女に目を伏せる意味が果たしてあるだろうか。

ひーちゃんがシュークリームをみんなに配っていた。「シュークリームおばさんだよ〜」と言いながら。

この世界に身を置く同じ生きる存在として、ひーちゃんの生きるその鼓動、その選択に涙しているだけなのだ。
しかし、たぶん、それを受け入れられるかそうでないかという問題以前に、このひーちゃんを家族以外の者が見てはいけなかったのだ、物質的描写で言えば、そこにたしかに存在する幼い女の子が眼のまえに存在する白い物質を食しているだけの映像だ。しかしだ、それだけではない。それを見た私以外の多くの者は「これはいけない!」と再生を止める。「美しい。。hahaha..」そうした私の反応と、彼らの「これはいけない」という反応、私が狂っているのか彼らが狂っているのか、その両極の反応がなければいけないのだ。

弟などにも見せたが、彼らの拒絶もわかる。しかしだ、この美しい映像が「いけない」のであるならば、この世など今すぐに爆発消滅してしまえばいいとも思う。

ひーちゃんが嫌いなお豆腐を少し食べられた。
その瞬間、私は「ひーちゃん、よかったね」などという言葉しか言えないのである。

それにしても、なにかに惹かれるたびに、その理由について明確に己に説明するようにあらゆる糸口を集結させ言葉巧みに自らを騙すかのように建築してゆく事に嫌気がするが、たぶん、惹かれているというその不透明さの不気味さに我慢ができる程に人間的では自分はないのだろう。
「ひーちゃんはお豆腐が苦手ですと言う仕草を全身でする。食感が駄目らしい。なるほど、たしかに豆腐という食べ物はとても独特な食感がある。」

ここで自分がひーちゃんが苦手なお豆腐を食べる姿にどれだけの感動をもらったのかを書いたとしても結局それはとても、変態的な瞳で捕獲できる少女愛好のキリングエッセンスでしかないと罵られる事が恐ろしいから、それを避けて通りたいはずなのだけれど、けれども、こうしたひーちゃんの美しさをどうにか言葉に残せないかと頭を抱えて考える純粋な自分もまだたしかに居る。

iru,たしかに居る、が、ひーちゃんが少女であり、私が大人である限りそれは叶わない夢なのかも知れない。
自己の保護など完全に無視し、焦がれている対象についてだけ明記してゆけばそれでいいはずなのだけれど、しかしだ、世の思考は凍結であり、その水準は必至だ、ひーちゃんは少女である、からして、少女であるひーちゃんに惹かれる私はそのまま「ロリコン」なのだ。この絶対公式を私が否定さえしていない事をここに記しておくべきだろうと思う。問題は、ひーちゃんへの感情なり想いを理解されないという絶望はないがしろにしてはいいが、ひーちゃんのかわいさや美しさを記す言葉に力が宿らねばいけない。

ひーちゃん=少女、という見解をもしも覆す事ができるのなら、それは私がひーちゃんを語るための言語をひーちゃんに見つけ出しそれをここに記せた時だろう。それまでは、ひーちゃんに惹かれてはいない者にとって、ひーちゃんはただただ少女でしかないのだから。
時折、他者にひーちゃんに惹かれている事を説明するという行為自体を放棄したくもなるだろうが、ここで、最早それは違う、私の感情なり行為はそうしたレベルの問題ではない!と否定するまでもなく、ひーちゃんは少女であり、私はロリコンだという、それ以上でもそれ以下でも無いという世界に提示する時につきまとう静かなショーウィンドウがたしかに存在する事を忘れてはいけないのだろう。


東京女子流という少女たちが東京少女流という名で出発しなかったという盾を有していても、年齢を伏せる事で少女を回避しながらも少女で有ることを宣言しつづけていても、今は少女である事による勝利よりも、少女である事による不利を強いられる不当さに戦かなければいけないだろう、まだ芸術表現に踏み込んではいけなかったかもしれない身体の年月は日の目を見てはいけない肉体としてでしか今は輝かないのだろうか、未来が見える、踊る肉体に今ではなく未来を願う事だけが美しき発見なのだろうか、○○未満だといくつも札をつけられるのか、表現している肉体そのものがR15を食らってしまうのだろうか、たぶん、その不当さにいちばん意識的で苛ついているのは「ゆりちゃん」だと思う、だからこそゆりちゃんに少女以外のなにかを今の段階で見る事の安堵は計り知れない、もしも、東京女子流の女の子たちが、この先もっと少女であるという脅威に意識的になり、その苛つきや守りや手放しを、それを踊る事ができるのなら、ほとんど、少女という存在が、大人が語る少女という存在に立ち向かうその瞬間そのものじゃないか。
制作者側が導く少女回避のトリックである楽曲や歌声やダンスのテクニックが生粋の幼さという足枷をいくら美しく越えようとしても、それは自己の叫ぶ湧きではない限りすべては拭えない、決定的に残るその肉体と魂の少女さが不当な眼差しを誘発し導き、まだ少女だと烙印を押す事を許してしまうだろう、

だからこそ今、東京女子流の女の子たちが踊る時に一瞬だけ垣間見せる、少女が少女ではないなにかに変貌する瞬間という過激な歪さの美しさを見過ごしてはいけない、その中心に居るのがまさか、ひーちゃんだとしたらこんなに恐ろしい事はない、シュークリームおばさ〜んと言っている女の子が踊り歌うその瞬間にいかなる存在に変貌しているのか、少女が表現という行為の選択をしてみせる時にどんな者になれるのか、だっちゃ、だっちゃ、だっちゃっちゃ。。。。にも関わらず、その事に気づくまえに、見る者は絶対的な生理の拒絶によって東京女子流の深部に触れるまえにその眼差しをとっくに寸断してみせる、
少女の単純生じ、勝手に禁止された存在がその禁止を解きにくる、ひーちゃんはひーちゃんを禁止しない、東京女子流の少女たちは自分が少女であることに賭けていない、その事で晴れ渡る未来を、瞳に含め、
出発、ひーちゃん=少女、という存在の選定が凝固してしまっているそのとてつもない力によって、そこで無条件に断絶されてしまうだろうひーちゃんの美しさの無力化、無発見であり、美しい存在として生きていても幼いというその事だけで禁断されてしまうひーちゃんの少女という存在の足枷は、東京女子流という存在を見ている者が大人であるから、その少女に惹かれているという成人である私とが、いかにしてこの世界の美が集結するその祭典に浮上するかという出発、

上記のこれらの文章がもしも適用されるならば、それは「鼓動の秘密」だろう、問題は、とてつもない問題は、「おんなじキモチ」なのだ、なぜならあのとき、一瞬もひーちゃんは、

いかんせん、その視点しか与えられてはいない者と、そんな生やさしい簡単な話ではなく、もっと大変に困った感情である事を知っている者とを瞬時に見分けて話をするかしないのだから、ひーちゃんについてはいくつかの友人にしか話はできないだろうと思う。
しかしだ、私はやがてその瞬間が来るならば、澄んだ面で言うつもりだ、「どうも、尼寺と申します。ひーちゃん萌えです。」と。
私のように不敵な少女との決闘の歴史がいくつもあり、そうした末にここにひーちゃんと出会ったという現象、少女のかたちをした少女以外のなにか、少女遭遇物語とはまったく関係のない場所に、ひーちゃんは居てくれるという事をどう証明すべきか。
私の知っている「少女」ではひーちゃんは無い。

なにを言っているのだろう、少女であるひーちゃんを、私は全力で少女ではないと言うのだ。
ひーちゃんなのだと。

なぜなら、東京女子流になるまでは完全にひーちゃんは一人のただの少女だっただろうが、ひーちゃんは東京女子流になったのだ、その事、その事、その重大さだけを。

お豆腐にお話を戻しましょう。
苦手なものと衝突する瞳ではないし、食べ終えた後の沈黙も、拒絶も、最後の微笑みも、どうしてこんな仕草になるんだろうかと心底心から優しい気持ちになる事しかできないのである。


6/4

新星堂本社でのCDイベントに行った。

何度かその姿を見られさえすれば、残酷なほどに滑稽にある瞬間にひーちゃんから離れられると思っていたけれど、会いにゆけば会いにゆくだけ、ひーちゃんの新たな美しさや愛おしさを知ってしまってまた次はいつその姿を見られるのだろうと考えてしまうようになってしまった。

一回目のイベントはLove Likeの振り替えイベントだった。地震の影響で4日まで延びたのだ。

ああ、そうか、あの出来事の後にひーちゃんには出会ったのだな、それまではひーちゃんを知ってはいたけど出会ってはいなかったのだ、イベント券を国分寺まで取りに行くときにそう思った。

東京女子流のイベントはヤフオクの行使が通用する場ではないから(券などがなにも出品されない!)、自分自身の肉体や精神をフルに運動させなければいけず、遠隔的な力ではなく、生身に躍動する愛する力こそがそのままひーちゃんを見られる場所を獲得する事になるわけだ、この肉体を運動力学的に時と場所に注げなければいけないことにやっと気付いたが、その時にはもう一回目のはじまる直前で、私意外のほとんどのファンの方々は会場にとっくについており、自身の距離を守れる領土を手に入れていた、「ひーちゃん。。もうきょうはひーちゃんを近くで見られないんだっちゃ?」、ここでもこうやって社会性の無さのせいでこうなるのだろうか?、まるでイス取りゲームみたいだ。。。などと考えて少し悲しい気持ちになった。

当然だ、私はとても不貞腐れてしまい、「これじゃひーちゃんを近くで見たりひーちゃんと見つめ合ったりできないじゃんか。。なんなんだよこいつら。。」。

そんな顔をしながら80年代のディスコのような照明が天井にデザインされているその会場の端の壁に寄りかかりひーちゃんにたそがれおじさんだった。

知らぬうちになぜか私の隣に現れたスタッフの女性のショートパンツ姿にある女性の面影を強く感じ悲しい気持ちになりながら、そして、すごく、ショートパンツがうれしかった。

そんな折、知り合いの男子流のskbくんの後姿を見つけたので挨拶しに行くと、彼はとひーちゃんの写真を、彼は私に、ひーちゃんの生写真をくれたのだっちゃ!。

思いもよらなかった事なのでその写真のなかに居るひーちゃんに会えただけでもまあきょうはそれだけでもよかったのだ、、と思いながらも、彼にお礼と男子流挨拶を済ませ、また自身の領土の奪取に勤しんだが、まあ隙間から見られる場所を見つけて私は、ひーちゃんの出現をただ待ち望んでいた。


































管理人 -尼寺-

 
inserted by FC2 system